【忍者の里探訪】伊賀喰代にある百地三太夫の砦が鉄壁すぎてさすが上忍だった

時は織田信長の天下統一が目前まで迫っていた時代。1578年から1581年にかけて伊賀忍者たちを襲った「天正伊賀の乱」で奮戦した百地三太夫(百地丹波)という上忍(位の高い忍び)がいました。彼は伊賀の喰代という地に砦を構え、服部家・藤林家とともに三大上忍と称され、伊賀の地で絶大な勢力を誇っていました。
小説「忍びの国」では、百地三太夫が住んでいた砦について、こう描かれています。
“平楽寺を出た無門は、芽吹き始めた麦畑を見ながら久米川のほとりを東に歩き、喰代の里へと帰ってきた。
・・・百地三太夫の砦、通称百地砦が築かれている。山の斜面を登るように主郭、二の廓、三の廓が配置されている。伊賀国内の他の砦と比べても一際巨大な砦である。高い壁のごとき土塁で覆われた主郭の傍らに、田圃一反の大きさをゆうに超す池がある。無門ら伊賀の下人が忍びの術を仕込まれた丸形池だ。“
引用:忍びの国(和田 竜著 新潮社刊)
無門は百地家の下忍ですから、この百地砦に詰めていたものと考えられます。そんな百地砦がなんとまだなお伊賀の地に結構いい状態で残っているんですよ。
喰代に来ただけで感激する!

伊賀上野城からは車で約12km走り、やってきたのは伊賀市喰代の地。一面が田んぼに覆われて、なんとものどかな風景です。なんてったって忍者だったら誰もが憧れる三大上忍の1人が住んでいた地ですからね…!

すこしだけせり上がっている丘の方へ向かうと、百地砦の看板が見えてきました。

砦のすぐ近くにある青雲寺の駐車場に車を止めると、そこにも石垣が…!実際に当時もこのあたりまで百地さんのお城の範囲だったようですよ。

ちなみにこちらが百地氏の菩提寺であった青雲寺です。

その隣には百度石があり、ここでお百度参り(石〜端まで100往復してお願い事をするお参り)ができちゃいます。
百地さんの不倫で恐ろしい事件が…

青雲寺の裏の方に百地砦への道が繋がっています。一気に不気味な感じがして来ましたが、2分くらい歩くと、なんやら石と塚のようなものが置いてあります。

所狭しとハサミがたくさん供えてありました。
この塚は「式部塚」といって、縁切りのお参りに効果があるのだそうです。百地三太夫の祖先に当たる人だと思いますが、南北朝時代の百地さんが朝廷にお勤めをしていて、そこの官女(式部)と恋に落ちたのだそうです。でもその時、百地さんは妻もいて、嫉妬に狂った百地の妻はその式部を古井戸に投げ入れて殺してしまったのだとか。
哀れな式部を供養するため建てられたこの塚に、誰にも見られずにハサミを置くと縁を切りたい人と縁が切れるのだそうです。
ついにお目見え! 百地砦!

式部塚を駆け足で後にすると、百地氏城跡の案内板が!

ここが南虎口となっているようです。結構高い土塁!当時はもっと積んでたんだろうなぁ! と思わせます。

そして虎口を突破するとそこには百地丹波守城趾の碑が!第二次天正伊賀の乱の際に綺麗に焼き払われてしまったのでもう跡形も残っていないですが、ここに城があったのですね!

こちらは北東に位置する虎口。でもこれだけ高い土塁を積んでいれば、その上から吹き矢とか焙烙火矢をぶち込めば、砦に寄せ付けずに撃退できそうです。

先ほど申し上げた通り、上の写真に写っている黄色い部分一帯は百地城の範囲だったようです。これはなかなか当時にしても珍しい、大きな砦ですね。近くには丸形池もあり、これが百地砦における掘の役割を果たしていました。

これが忍者達が修行したと伝えられている丸形池…今にもぴょこっと竹の筒が飛び出して来そうな雰囲気ですね!ちなみに忍びの国の原作でしか出てこない「鉄」という少年は、この丸形池のほとりに住んでいました。
なんて攻めづらい百地砦!

これは百地砦の一番高いところから喰代の地を見渡した景色です。
かなり遠い範囲まで一望でき、近隣の伊賀忍者達が小競り合いで攻めて来ても、行軍をよく見ることができます。こんなに眺めがよく大きい砦…やはり相当力をつけていたに違いない!おそるべし伊賀上忍・百地三太夫!!
ぜひ一度、百地家以外の家に仕える忍者になった気持ちで、この百地砦に潜入するシミュレーションをしてみてください。ここに見張りがいたら・・・などと考えると、なかなか攻めづらい砦であるとわかると思いますよ。
出典:すべての忍者をJackする「Ninjack」