『ブラタモリ』の足跡をたどる(倉敷編/2017.6.3放映)
なぜ美しい町並みが倉敷に??

格子窓の町家に川面に移る柳並木。倉敷川沿いの情緒あふれる町並みは「倉敷美観地区」と呼ばれ、国内外から多くの人が訪れる観光地として人気を集めています。美しい町並みの歴史に迫る『ブラタモリ』2017年6月3日放映の倉敷編にて辿ったスポットをご紹介していきます。
美観地区の建物

美観地区は倉敷市の中心だった所で、江戸時代から明治、大正、戦前にかけて様々な時代の建物が残り、和と洋、レトロとモダンが融合した美しい町並みが特徴。代表的なのが江戸時代に建てられた蔵で、「なまこ壁」と呼ばれる瓦を並べてしっくいで固めたが壁がある。
なまこ壁は高価なため城や豪商の建物に多い。元は倉敷の町役場だった洋館は、大正6年(1917年)に建てられたもの。
倉敷川

港町として栄えていた倉敷に物資を運ぶために使われていた川。倉敷という言葉は元々地名では無く、年貢などを輸送する際に一時保管する倉庫が置かれた場所を意味する「倉敷地」だった。倉敷地だったから蔵ができ、物資が集まる場所として倉敷という地名が付いたそうだ。だからこそ美しい街並みを代表するたくさんの蔵があるそうだ。
倉敷川は海につながる運河で別名「汐入川」とも呼ばれ、上流から水が流れているのではなく、海の水が入って来ていたという。江戸時代から川を使って江戸や大坂と繋がり栄えたことで倉敷に多くの豪商が生まれたそうだ。
明治創業の紡績工場
赤レンガの外壁で覆われた明治22年(1889年)に創業した倉敷紡績の旧本社工場。その工場を再開発してできたのが複合交流施設「倉敷アイビースクエア」。施設内にはホテルやレストラン、工房、売店の他、倉敷紡績の明治時代からの史料を年代順に展示している「倉紡記念館」や「アイビー学館」など4つの文化施設があり、倉敷の歴史と文化を感じることができる。
代官所跡の碑
徳川家康を中心とする東軍が勝利し、天領となった江戸時代の倉敷は幕府の命を受けて兵糧米十数万石を倉敷湊から大阪に積み出すために陣屋として屋敷を構えた。この屋敷により急速に発展した倉敷は倉敷代官所となったが廃藩置県により廃止となった。その後、この敷地は明治21年(1888年)に倉敷紡績所(クラボウ)の敷地となり、翌年同工場が建設。
工場が廃止した後は外観や立木が全て保存された状態で昭和48年(1973年)に「倉敷アイビースクエア」という名の複合交流施設として開発された。現在敷地内に残っている石碑は、かつてこの場所が徳川幕府の天領であったことを記す史跡となっている。
明治22年にできた紡績工場跡
明治22年(1889年)につくられた倉敷の紡績工場の中でいちばん古い建物。海を埋め立てた地にあり、土には塩分が含まれることから、塩分を取り込む性質のある綿花が育てられそれを使った綿糸をつくる紡績工場が作られた。
大正から昭和初期の倉敷の紡績工場は、最先端のイギリスの技術を導入している。紡績技術だけでなくレンガを短い面と長い面を交互に重ねるイギリス積みと呼ばれるレンガの壁や、のこぎり屋根など工場のすべてがイギリス式でつくられている。現在は写真展の常設や貸しギャラリーなどを行っている「アイビー学館」になっている。
工場を彩るアイビー(ツタ)
倉敷とイギリスは緯度が違い、イギリス式で作られたのこぎり屋根の北川の窓から直射日光が入り、夏には工場内が暑くなりすぎた。そのため工場の外壁にツタ(アイビー)をはわせることで日光を遮り断熱を行った結果、南側の壁の温度は10度も下がったそうだ。
暑さ対策のために植えられたツタだが、今では工場を美しく彩り多くの観光客を楽しませる大きな観光資源になっている。
大原美術館

紡績工場の社長など多くの事業を手掛けた大原孫三郎が、事業で得た富を社会のために使いたいと西洋から名画を買い集めて建てられた美術館。昭和5年に設立した日本で初となる西洋美術中心の私立美術館で、様々な展覧会やイベント、ワークショップなども開催している。
作品は西洋美術や日本美術、工芸、オリエントなど約1500点ほどを展示しており、コレクションリストとしてはギリシャ・ローマ美術や東洋、外国のタイルなどがある。
有料となるが、作品のキャプションに付帯している番号を押すとその作品を解説してくれる音声ガイドを利用することができる。美術館内にはミュージアム・ショップがあり、書籍や複製品、食品、カレンダーなどを購入することができる。
美術館別館の建物
城壁のような壁の建物は大原美術館の分館。大原孫三郎の事業を引き継いだ長男の総一郎が建てたもので、昭和36年(1961年)に完成。近代日本の洋画や古代オリエント美術などを展示している。
この城壁のデザインは、鶴形山を天守閣に見立てた時に倉敷の古い町並みがあるエリア全体がまさに城下町のようで、大原美術館の分館がこの町の隅を守っているというイメージで作られた。
分館が建てられた昭和30年代は古いものに見向きもしなかった時代だったため、そこに危機感を持った大原総一郎の「倉敷の町並みを守ろう」という強い思いが込められている。この意志は市民達にも受け継がれ、昭和43年(1968年)に倉敷市は全国2番目の早さで「倉敷市伝統美観保存条例」を制定した。
情報提供:株式会社エム・データ
写真提供:岡山県観光連盟